Nation : Wikipedia

Nation : Wikipedia From Wikipedia, the free encyclopedia For other uses, see Nation (disambiguation). A nation is a group of people who share common history, culture, ethnic origin and language, often possessing or seeking its own government.[1] The development and conceptualization of a nation is closely related to the development of modern industrial states and nationalist movements in Europe in the eighteenth and nineteenth centuries,[2] although nationalists would trace nations into the past along uninterrupted lines of historical narrative. Though the idea of nationality and race are often connected, the two are separate concepts, race dealing more with genotypic and phenotypic similarity and clustering, and nationality with the sense of belonging to a culture. A nation is different from a country in that a country is the land that belongs to a nation, and from a state in that a state is the government of the nation and country. Benedict Anderson argued that nations were "imagined communities" because "the members of even the smallest nation will never know most of their fellow-members, meet them, or even hear of them, yet in the minds of each lives the image of their communion", and traced their origins back to vernacular print journalism, which by its very nature was limited with linguistic zones and addressed a common audience.[3] Although "nation" is also commonly used in informal discourse as a synonym for state or country, a nation is not identical to a state. Countries where the social concept of "nation" coincides with the political concept of "state" are called nation states.

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2010年7月12日月曜日

アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus):Wikipedia


アウレリウス・アウグスティヌスAurelius Augustinus354年11月13日 - 430年8月28日)は、古代キリスト教神学者哲学者説教者ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。カトリック教会聖公会ルーテル教会正教会非カルケドン派聖人。母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、本項のアウグスティヌスはこれと区別してヒッポのアウグスティヌスと呼ばれる。

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生涯 [編集]

アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアス-ク・アハラス)に生まれた。若い頃から弁論術の勉強をし、370年から西方第2の都市カルタゴで弁論術を学ぶ。父パトリキウスは371年、死の直前に受洗した。翌372年、同棲中の女性(氏名不詳)との間に息子Adeodatusアデオダトゥス(ラテン語で「神の贈り物」の意)(372-388)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた。」と『告白』で述べている。
キリスト教に回心する前は、一時期、善悪二元論のマニ教を信奉(373年382年)していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。
当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマ383年に行き、更に384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けるな」を読んで回心したといわれる。
アウグスティヌスは、387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌスの定めた会則を元に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。
391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。
430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日とあわせるように古代思想の巨人はこの世を去った。

思想・評価 [編集]

西欧・西方教会 [編集]

アウグスティヌスの思想的影響は西欧キリスト教西方教会)にとどまらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではない。
アウグスティヌス自身はプラトン新プラトン主義プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。
アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。しかし、忘れてはならないのはこのようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があったということである(ペラギウス論争といわれる一連の論争はキリスト教における原罪理解の明確化に貢献している)。
中世カトリックを代表する神学者トマス・アクィナスもアウグスティヌスから大きな影響を受けた。
近代に入ってアウグスティヌス思想から影響を受けた神学者の代表として、ジャン・カルヴァンコルネリウス・ヤンセンをあげることができる。カルヴァンは宗教改革運動の指導者の一人としてあまりに有名だが、ヤンセンはあくまでカトリック教会内にとどまった。しかし、ヤンセンの影響はジャンセニスムとしてカトリック教会内に大論争を巻き起こすことになる。
ほかにもアウグスティヌスの時間意識(神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものであるというもの)も西洋思想の一部となったし、義戦(正戦論)という問題も扱っている。これもドナティスト論争という当時の神学論争の歴史的文脈から理解しないと誤解を招くが、アウグスティヌスは異端的になったドナティストを正しい信仰に戻すためなら武力行使もやむをえないと考えた。
また神学者としては聖霊が父と子から発出することを、語り手・ことばによって伝えられる愛の類比などによって説いた。この立論は後のフィリオクェ問題における西方神学の聖霊論の基礎のひとつとなった。
信仰実践の面では、西方における共住修道のあり方に、ベネディクトゥスに次ぐ影響を与えた。アウグスティヌスが一時実践した共住修道の修道規則とされたものは、中世末期にアウグスティノ会の設立へとつながり、これはカトリックにとどまらず、ルターを通じて宗教改革とプロテスタント的禁欲の思想へも影響を与えている。
現代ではアウグスティヌスがソフトウェアなどの知的財産の無償性を唱えた最初の人物であるとみなされることがある。彼自身は哲学について述べているのだが、思想というのは物質と異なり、自由に共有されるべきものだとアウグスティヌスは考えていた。
フランク王国の国王カール大帝もことのほかアウグスティヌスの著作を好み、食事中に読ませたという。アウグスティヌスは圧倒的に人気があったため、自然な流れで聖人となり、1303年に教皇ボニファティウス8世によって教会博士とされた。アウグスティヌスの記念日は彼が死去した日とされる8月28日である。彼は西方においては醸造業者、印刷業者、神学者の守護聖人であり、多くの地域、都市の守護聖人ともなっている。

東方教会 [編集]

東方教会正教会東方諸教会)においてもアウグスティヌスは聖人として崇敬される。
正教会でもその生涯における神への模索と洗礼までの道程について言及されるなど[1]、全面的に否定されている訳ではない。
しかしながら正教会では西方教会に比べてアウグスティヌスの位置づけはさほど重要なものとされていない。特に原罪堕落を巡るアウグスティヌスの見解に対して、正教会はこれを否定する[2][3][4]

著作 [編集]

アカデメイア派の懐疑論者、ペラギウス主義マニ教への反駁の他、魂、時間、自由、意志、来世(神の国)についての論考、聖書の注解、音楽論などの著作が残るが、『告白』などから現存しない著作があることも知られている。「著作集」は教文館で約30巻が、刊行されたが未完結である。主要著書は以下。

脚注 [編集]

  1. ^ 府主教イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』8頁、東京復活大聖堂教会(ニコライ堂) 2004年
  2. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p5, ISBN 9780631232032
  3. ^ 府主教カリストス・ウェア著、司祭ダヴィド水口優明・司祭ゲオルギイ松島雄一訳『カリストス・ウェア主教論集1 私たちはどのように救われるのか』14頁 - 17頁、2003年 日本ハリストス正教会 西日本主教区
  4. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』78頁 - 79頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)

関連項目 [編集]

ウィキクォート
ウィキクォートアウグスティヌスに関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズ

外部リンク [編集]



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